地学

昭和新山ができた理由はマグマ、育つ姿は郵便局長のスケッチに残った

麦畑の向こうで湯気を上げる溶岩ドームと、手前のスケッチ帳を前に山を見上げる羊さん

北海道の洞爺湖(昭和新山のそばにある北海道の湖)のそばに、1943年から1945年にかけて、畑だった場所が盛り上がってできた山がある。
それが昭和新山だ。

昭和新山ができたのは戦時中で、新聞やラジオは一切報じなかった。
それなのに、山がどう育ったかは細かく分かっているんだ。

僕自身は、昭和新山にも有珠山(昭和新山を作った北海道の火山)にも洞爺湖にも行ったことがない。
それでも、山が育つ様子を描き続けた人がいたことを知ると、そこに残った記録が気になってくる。

今回は、畑が山へ変わった理由と、その姿を描いた郵便局長の記録から、未来を覗き見てみよう。

目次
  1. 昭和新山ができた年はいつ、場所はどこなのか
  2. 昭和新山はなぜできたのか、理由は地下から畑を押し上げたマグマだった
  3. 郵便局長の三松正夫は、戦時中に誰も報じなかった山の育ち方を同じ場所から描き続けた
  4. 郵便局長は、できたばかりの火山を買い取って私有地にした
  5. 昭和新山を作った有珠山は最近では2000年に噴火し、記録はひ孫の代へ引き継がれた
  6. 畑から生まれた山の記録は、今も続いている
  7. 参考にした資料

昭和新山ができた年はいつ、場所はどこなのか

ひび割れて盛り上がり始めた麦畑と、遠くの有珠山を見ながら畑の端でしゃがむ羊さん

昭和新山は、北海道の有珠山の東のふもと、有珠郡壮瞥町(昭和新山がある北海道の町)にある。

その周辺で地震が始まったのは、1943年の暮れだった。
年が明けると、震源は東のふもとに集まっていき、地面も盛り上がり始めたんだ。

盛り上がる中心は北へ移っていった。
6月22日には、体に感じる地震(有感地震(揺れを人が体に感じる地震))が1日に250回もあった。

その翌日、麦畑だった東九万坪(今の昭和新山の中央部にあたる場所の当時の地名)の畑から水蒸気噴火(マグマの熱で地下水が水蒸気になって起きる噴火)(水蒸気爆発)が始まった。
水蒸気噴火は、上がってきたマグマの熱で地下水が一気に水蒸気になり、地面を吹き飛ばす噴火のことだ。

爆発は、秋の終わりの大きな爆発を最後におさまった。
そのあと、盛り上がった台地の中央から溶岩が顔を出し、上へ伸び続けていった。

そして1945年9月、成長が止まったときの高さは406.9mだった。
地震が始まってから成長が止まるまで、およそ1年9か月かかっている。
畑が2年足らずで標高400mを超える山になったと知ったとき、僕は「何をどうしたらそうなるんだよ」って思った。

こうしてできた山には、「昭和新山」という名前が付けられたんだ。

昭和新山はなぜできたのか、理由は地下から畑を押し上げたマグマだった

地下から上がってきたマグマが地面を押し上げ、中央から溶岩が顔を出す断面をのぞく羊さん

マグマというのは、地下で岩石がどろどろに溶けたものだ。
これがふもとの地下まで上がってきたため、噴火の前から地震が続いていたんだ。

有珠山は、粘り気の強いマグマが上がってくることが多い火山だ。
粘り気の強いマグマが地表の近くまで上がると、地面を下から押し上げる。

そのため畑は盛り上がり、屋根山(マグマが外に出ないまま地面を押し上げた盛り上がり)(潜在ドーム(マグマが外に出ないまま地面を押し上げた盛り上がり))になった。
屋根山とは、マグマが外に出ないまま地面を押し上げてできた盛り上がりのことで、高さは100mほどになった。

上がってきたマグマが地下水に触れると、激しい水蒸気爆発が続いた。
その後、屋根山の中央から半分固まった溶岩が地表に押し出されて、溶岩ドーム(粘り気の強い溶岩が盛り上がってできたおわん形の山)になったんだ。

溶岩ドームは、粘り気の強い溶岩が流れずに火口の上へ盛り上がってできる、おわんを伏せたような形の山だ。
それが今の昭和新山の山頂部分になっている。

畑が下から押されて、風船みたいにふくらんでいったと考えるとイメージしやすいよね。

郵便局長の三松正夫は、戦時中に誰も報じなかった山の育ち方を同じ場所から描き続けた

郵便局の裏で、あごを載せる台と水平に張った糸ごしに山をスケッチする机と、同じ位置から山をのぞく羊さん

昭和新山ができた時期は戦時中で、厳しい報道管制(国や軍が新聞やラジオのニュースを止めること)が行われていた。
報道管制とは、国や軍が新聞やラジオに出すニュースを止めたり、決めたりすることだ。

そのため、昭和新山の成長は新聞やラジオで報じることが一切禁止されていた。
それでも山の様子が分かるのは、現地で観測を続けた人たちがいたからなんだ。

三松正夫は、当時の壮瞥の郵便局長だった。
1910年の有珠山噴火のときには、東京大学の大森房吉(1910年の有珠山噴火を現地観測した東京大学の学者)による現地観測を手伝っていた。
そのとき三松は、噴火に出会った人は起きたことを客観的、科学的に観察して、次の防災に役立てるべきだと教えられていた。

研究者たちは戦争に役立つ調査に追われ、現場で一部始終を見届ける余裕がなかった。
だから三松は自分で観察し、報告書を研究者に送ったんだ。

ただ、余裕がなかったのは一部始終を見届けることで、研究者たちも観測はしていた。
1943年から1945年の活動は、研究者の水上、石川、八木も詳しく観測しているんだ。

三松は郵便局の裏を観測の定点にした。
定点観測(決まった1か所から同じものを見て記録すること)とは、決まった1か所から同じ向きで、くり返し同じものを見て記録することだ。

あごを載せる台を固定し、水平に糸、つまりテグスを張って基準にした。
そして、その場所から山のスケッチを描き続けたんだ。

三松はもともと絵が得意だった。
そのため、写真のフィルムが手に入りにくい戦時中でも、絵で記録を残すことができた。

僕は、三松正夫が描いたスケッチの実物を見てみたい。
三松が実際にどんな風景の中で山を見ていたのかも知りたいと思っている。

のちに三松は、描いた山の輪郭、つまり稜線だけを1枚の図に重ねて「昭和新山隆起図」にまとめた。
地震の回数と噴火、地面の盛り上がり(隆起)の移り変わりを並べた図も作っている。

この2枚の図は1948年、ノルウェーのオスロで開かれた国際的な火山の会議に出されたという。
参加者がこれを「ミマツダイヤグラム(三松正夫が昭和新山の育ち方を記録した図)」と呼ぶことにした、と記念館を作った三松三朗さんは書いている。

文化庁の解説も、1943年から1945年にかけての山の変化を三松正夫が克明に記録し、その図が有名だとしている。

郵便局長は、できたばかりの火山を買い取って私有地にした

湯気を上げる山を前に、古い土地の地図を広げる羊さん

三松は昭和新山を、隆起してできる火山の貴重な標本だと考えていた。
その一帯を残すべきだと思い、麦畑が火山になって暮らしを失った農家を助けたい気持ちもあった。

そこで三松は、国や道に昭和新山の保護を頼んで回った。
しかし、災害のもとになった火山を守るなどありえないと相手にされなかったんだ。

だから三松は、私財28,000円で主要な部分42ha余りを買い取って、自分の私有地にしたんだ。
それは戦争が終わった直後で、食べることさえままならない時期だった。

僕は、終戦直後の一番しんどい時に自分のお金を使うなんて、結構度胸があることだと思う。
しかも、そこまで先を見据えて記録を取っていたのはすごいなって思うんだよね。

昭和新山はその後、国の天然記念物となり、さらに特別天然記念物(天然記念物のうち、とくに価値が高いとされたもの)になった。
特別天然記念物とは、国が指定する天然記念物のうち、とくに価値が高いとされたものだ。
2004年の時点では、1977年の有珠山噴火のあとに崩れる危険があるとして、昭和新山への立ち入りが規制されていた。

昭和新山を作った有珠山は最近では2000年に噴火し、記録はひ孫の代へ引き継がれた

昭和新山を作った有珠山は、その後も1977〜78年に噴火し、いちばん最近では2000年に噴火している。

有珠山は、噴火の前に体に感じる地震が多くなり、地面が大きく動くのが特徴だ。
気象庁は今も有珠山を、地震計や監視カメラなどで常に見張っている。

三松正夫は、1977年の有珠山噴火を見た。
その年の12月に亡くなっている。

三松が残した記録は、のちに開かれた資料館で公開されるようになった。
この資料館が、今の三松正夫記念館(三松正夫の記録を公開している壮瞥町の記念館)だ。

記念館を作った三松三朗さんは、2025年に亡くなった。
そして2026年、正夫のひ孫で三朗さんの息子の三松靖志さんが、2代目の館長になったんだ。
郵便局長が始めた記録が、ひ孫の代まで続いているってことだよね。

畑から生まれた山の記録は、今も続いている

夜の山のふもとに置かれた観測機器と監視カメラのそばに座る羊さん

1943年に畑だった場所が、2年足らずで山になった。
それが分かるのは、現場で観測を続けた研究者たちと、同じ場所から山を描き続けた郵便局長がいたからなんだ。

有珠山は今も見張られていて、記念館の記録も次の世代に渡っている。
そうした記録があるから、畑が山へ変わっていく姿を、あとからたどることができる。

僕はいつか昭和新山に行ってみたい。
郵便局の側からだけでなく、山の反対側にも行ってみたいと思っている。

山がなかったころ、そこがどんな景色だったのかも見てみたい。
畑だった場所にできた山と、その前の景色を自分の目で比べてみたいんだ。

有珠山は今も動いていて、次にどんな山が生まれるのか、そのとき誰がどう記録するのかは、まだ分からない。
今回も未来を覗き見れたかな?それじゃ、バイバイ!

参考にした資料

・有珠山 有史以降の火山活動(気象庁)

・有珠山(気象庁)

・有珠山噴火災害教訓情報資料集「07.1943-45年噴火では、〜土地の隆起により昭和新山が形成された。」(内閣府 防災情報のページ)

・火山誕生を見守り続けた郵便局長 三松正夫記念館(三松三朗, 地質ニュース597号, 2004年5月, 産業技術総合研究所 地質調査総合センター)

・昭和新山(文化庁 国指定文化財等データベース)

・昭和新山とミマツダイヤグラム(観光庁 地域観光資源の多言語解説文データベース)

・潜在円頂丘(最新 地学事典, コトバンク)

・溶岩円頂丘(デジタル大辞泉・日本大百科全書, コトバンク)

・昭和新山を記録した三松正夫さんの記念館 新館長はひ孫の靖志さん(北海道新聞, 2026年4月6日)

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生き物・宇宙・地震…気になるサイエンスに手を出しまくる好奇心の塊🐑
「未来を覗き見る」をテーマに、身近な不思議から壮大な話まで、調べて分かったことをゆるく発信中。
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記事はAIと一緒に下書きし、数字や年号は参考資料にあたって確認したうえで、最後は僕が読んで公開しています。

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